五十年以上も住んでいると家には不要のものがたくさんあっても
不思議ではない。これは思い出があるとか、いつか使えるかもとい
う思いがあっていつの間にか増えてしまった。
私は体調が悪くあまり手伝えなかったが、夫は終活といいながら
物置を整理しだした。そのため夫は背骨を骨折してしまい、年内に
2度もの骨折となってしまった。無理はできない年齢になった証とい
えよう。
その折、亡き義父が描いた「欅」の絵が梱包されて出てきた。サ
イズが大きくて部屋に飾れないと思ったのか義父は物置にしまって
おいたようだ。あの絵はどうしたのかと日頃思っていたものが見つ
かったのである。
キャンパスに描かれた欅は葉を落とした冬の裸木で我が家の前に
ある八幡様の大樹である。おそらく二・三百年は経ていると思われ
る欅である。義父の描いた「欅」の絵は実に丁寧に描かれていて、
奇をてらうことはなく、穏やかに眺められる良い絵だと思える。義父
が力を出し切ったようにも思えてくる。少し大きいがその絵を部屋に
飾ることにした。義父のことを語れる私たちも残された時間が限られ
ているから、義父が描いた絵を受け止めてあげようと思ったのである。
その絵を見ていると語ってくれた義父の人生が懐かしく思い出されて
くる。
絵を描かくことが好きだった義父は父親に
「美術学校に入れてほしい」
と頼んだ所父親は、
「お前は絵乞食になるのか」
と一蹴され諦めざるを得なかった。そして、盛岡高等農林学校に進み
生物の教員になったという。その頃は上野から盛岡まで九時間もかか
り、寮で汽笛の音が聞こえたときは千葉からの遠さを感じたという。
そのころの話を多く聞いているが、その中の一つのエピソードだけは
子供たちは信じようとはしなかった。それは義父が馬に乗り、スキー
をしたという内容だった。義父の日常の姿から想像できなかったのか
もしれない。義父は
「そうか、でも本当だよ」
と言って笑っていた。
義父の卒業時は世界恐慌の影響で就職がなく代用教員として千葉
県の江見の小学校の教員として赴任した。生物の教員でありなが小
学校の教員として勤務をした。ある時、最も苦手な音楽の研究授業
をするように言われ門外漢の義父は平誤りして何とか免れたという。
やがて静岡県の藤枝市の旧制中学の教員になった。
その頃、休日にはいつもイーゼルを持って絵を描いていたそうである。
そんな義父の姿を見て絵の道に進もうと考えた学生が画家「山下充」
氏であったという。その後不幸にも義父は先妻を亡くし子供を連れて故
郷に帰ろうと決断したのである。千葉に帰り旧制成東中学の教員となり
義母と再婚して夫が生まれたのである。
数十年後、成人になった山下充氏が大変な思いで絵を描きながら房州
を巡ったそうである。その時、我が家へ立ち寄り1週間ぐらい滞在したそ
うである。滞在中も絵を描いて話す山下氏の姿を見て、画家になる厳しさ
を夫は子供心に感じたと話している。やがて山下氏は洋画家としてフラン
スに渡りプロの画家としての活躍となった。日本でも個展を開いたとき義
父は見に行ったおり、義父にとって山下氏との縁から一枚の絵を購入した
かったようであったが、作品は日動画廊が管理していると知らされ断念した
ようである。
義父は在職中、絵筆をとることができなかったようだが退職してからの日
中ほとんど絵を描きながら、また絵を描く仲間との交流を楽しんでいた。出
来上がった絵を義母に感想を求めるのが常であった。義母の批評は容赦なく
「お父さんの絵は真面目で面白くない。絵に遊び心がない」
というと義父は
「なるほどな」と言い義母に筆を渡し
「描いてみろ」と促した。
義母はキャンパスに我流の色を塗ったが批評するような新たな変化は感じら
れなかった。義父はどうするかと思いきや翌朝になると義母が描いた個所は
全て削りとられ元の絵になっていた。だからといって義母は怒ることはなかっ
た。そんなことが度々あって、掛け合
い漫才のような出来事は二人して楽しんでいたように思われる。今はとても懐
かしく思い出される。
義父が75歳のころだと思うが山下氏から
「先生と二人で地中海の夕焼けの景色の絵を描きたいからフランスに来ませんか」
という誘いの手紙が届いた。しかし、義父は体調が悪く願いはかなうことがで
きなかった。さぞかし残念だったと思われる。
父が他界した後、山下充氏の絵が日動画廊で展示されるということを知っ
て夫と見に行った。色彩がきれいな風景画で魅力がある絵であった。義父が
購入したかった画家の絵であるが私どもが手の届く値段ではなかった。画廊
の方に義父の思いを伝えたかったので「高安健二の家族が見に来たことを
お伝えください」と依頼して画廊を後にした。聞くところによると山下氏はフランス
を引き払い日本に帰国しているとのことだった。
私は昨年八〇歳になり消えゆく命の虚しさというものを強く感じるようになって
きた。他者にとってつまらない話かもしれないが、義父の絵を見ていると義父が生
きたできごとを受け止めて記しておこうという思いがわいてきた。私の心のどこか
にも受け止めてほしい願いがあるからなのかもしれない。そんな思いを重ね、義
父の人生の欅につながる思い出の一部を記してみた。
生前義父は
「親父の言うことを聞いて美術学校に行かず教員になってよかった。今、絵を楽しく描けるから」
と話してくれた。絵を描くことは父の心のよりどころだったのだろうと思われる。
「欅」を通し、語ってくれた義父の人生の思い出が呼び起こされる。私の年齢も
だんだん義父母に近づいている。終末を感じながら、全てのものがやがて消えてい
くことを感じる。しかも、残された時間は僅かである。それでも懐かしい思い出を手
繰り寄せることは、夫との二人だけの日常にも家族の時間は賑やかになっていく。
それらを日々の力にして過ごしていこうと願っている。
