



「鏡よ、鏡よ鏡さん。私の心を写してごらん。かわいい私はどこにいるの」
芝居がかった台詞をささやいて自分の顔から目を離さないように由佳は鏡を覗いていた。
由佳は,鏡に映る今日の自分は貧しそうに思えた。このところ、何故か、いらついていて
学校でも、家でも楽しくはなく、常に心が満たされない思いだった。その訳は親友のみど
りに彼氏ができ、プレゼントされたペンダントを首から提げていて、私にみせつけたよう
に思えたときからである。それ以来、自分は取り残されたような気分になっていた。
登校前の時間もてきぱきとできずテニス部の部活動に遅れそうな時間になってしまった。
のらない気持ちのまま足早に家を出た。何か忘れ物をした思いにかられ、振り返って見
た。我が家の門のところに「柏葉アジサイ」が純白のとんがり帽子をかぶったように梅
雨空に美しく咲いていた。昨日だって咲いていたはずなのに、今日の花は慕わしく感じ
られた。
学校に着くと、先輩達が梅雨空をぬってグランドを何周かしていた。遅れたことの気ま
ずさを感じながら最後部を走りだした。湿度が高いためか汗がきりもなく流れた。無言で
走っていると、由佳は汗まみれの自分が汚れた人形のように思えた。この時、何故か今朝
見た柏葉アジサイの白い花びらが残像になって現れ、自分とはかけ離れた美しさを夢想し
ていた。
1時間目は数学の授業であった。数学の授業は連立方程式の応用問題だった。数学は好
きな教科であったが、授業が進むにつれ顔から脂汗がでるような腹痛が始まり下腹が絞ら
れるように痛くなり、寒気がして声を出すこともできなかった。すると友達が
「先生、由佳真っ青な顔をしてます」先生はすぐ保健室に行くように促したが、まずトイ
レに駆け込んだ。保健室に行ったころは比較的楽になり、訳を話すと養護の先生は体温計
を出して計ってくれた。
「熱があるから、お家の方に迎えにきてもらったらどう?」と言った。
「大丈夫。痛みは治まったから自分で帰れます」と由佳は言った。この所、いらついてい
た由佳は、母とろくな会話もしていない気まずさもあった。
学校を出て家路に向かっていると、印刷された日本画を路上で売っている人がいた。
亡くなった祖父が油絵を描いていたので、懐かしい思いでその前に立ち止まった。
「お譲さん、お気に入りの絵はありますか」縁の切れた縞模様の帽子をかぶった叔父さん
が声をかけてきた。
「見てもいい」と聞くと
「どうぞ どうぞ」と愛想良く他の絵を広げてくれた。風景画や花や少女の絵があって色
彩がきれいだった。
「叔父さん、柏葉アジサイの絵はあるの?」訪ねると
「珍しい花の名前をしっているねえ。あるよ。花はひたむきに咲くから美しいねえ。その
上、しゃべらないのもいいよな」
そう言って柏葉アジサイの絵をそっと手元に置いてくれた。雨上がりの澄んだ空気の中で、
日差しを受けた絵の中の花びらはいっそう美しく見えてきた。由佳はふと最近の自分を思
い出していた。すると、柏葉アジサイの花びらのひとつ、ひとつに、その時々の由佳の顔
「小顔になりたい」「素敵な服を着たい」「彼氏がほしい」「お金がほしい」「自由でい
たい」と物欲しげな表情が写っているように思えた。
「北米産の純白の柏葉アジサイは、黙って日本の梅雨に咲こうとするからきれいなのかな
あ。この絵からわしはそんな思いが感じられるな。うっ、また雨が降ってきたようだね。
店じまいしなくてはなあ。そんなに気に入ったら君にこの絵あげよう」
叔父さんは言った。由佳は慌てて断り一礼した。叔父さんの言葉に由佳は、欲しがってい
るばかりの自分が恥ずかしく思え、はっきりはわからないが自分に必要なものは他にある
ように思えた。
雨が強く降り出した。由佳は無性に濡れたかった。濡れることで自分を忘れようとした。
自分の靴音だけを聞きながら歩いていくと街並みがかすんでいき、ヌレネズミなって歩い
ている自分に由佳は少しもいらだちを感じはしなかった。
