私は昨年(令和三年)の九月に「今日の風」と題した詩集を発行しましたが、発行にあたり
日本画家若木山氏の作品「芙蓉」を表紙絵に使わせて戴きました。使用にあたり、ご遺族であ
るお嬢様道守友視さんからは快いご承諾の賜り、心から感謝したい思いでおります。
作品「芙蓉」は嘗て義父が若木山氏から直接購入したもので、私が結婚した当初から我が
家に飾られておりました。我が家には若木山氏の作品が三点あります。一点は夫高安義郎が
出版した詩集「母の庭」の表紙に使わせていただいた「紺春」と題された絵で、二本の木蓮
の花の背後から白や桃色や赤の椿がこぼれんばかりに咲いて、輝くように咲く春のまぶし
さが表現されています。二点目が「芙蓉」で、夏の日差しを浴び、風を受け花よりも花らし
くと思えるほど夏を鮮やかに咲いています。三点目は大きな作品の下図で「島の椿」と題さ
れ、より造形色が強く感じられる作品です。独創性を求め新たに挑戦された作品だと思えま
す。この絵は現在義姉が所有しています。
この三点の作品は若木山氏の独特な構成で描かれており、将に我が家の営みと共にあっ
た作品だといえましょう。
義父は若い頃画家になりたいという思いがあったそうですが美術学校には行かず博物
(生物)学の教員になりましたが、プロとして表現している若木山氏のアトリエを訪ねるこ
とは、この上ない楽しみであったと思われます。
夫が詩集の表紙に作品「紺春」を使わせていただく際、若木氏宅のある町、土気に訪れま
した。この時若木山氏の夫人が私どもを迎えてくださり、周りが山野草に囲まれたお茶室で
手持ちの遺作である色紙作品を拝見させて下さいました。また、義父がアトリエをよく訪
れたことも覚えていてくださり、二代に渡りご縁があったことを嬉しく思いました。
夫人が他界され、連絡が取れなくなっていましたので、著作権の関係から、氏の作品使用
は困難かとも思われましたが、以前訪れた折夫人が「若木の作品はほとんど千葉県立美術
館に収納されています」と言われたことを思い出したのでした。そこで一縷の望みを託し
て千葉県立美術館に連絡を取りましたところ、学芸員の相川順子さんが相談に乗ってく
ださり、現在著作権を継承されているのはお嬢様の道守友視さんであることを紹介くださ
ったのでした。お陰で友視さんからは作品使用の快いご承諾をいただきました。
出来上がりました詩集「今日の風」をいち早く道守友視さんにお送りしたところ、友視
んから若木山夫人の歌集「山の家居」が送られてきました。それを拝読し若木山ご夫妻の
生き方と、御両親を思う娘さんの心根に打たれました。
我が家にあった三副の絵に加え、歌集「山の家居」と出会った縁から、この日本画家の人
物像を記しておきたい思いに駆られたものでした。
画家若木山は一九一二年(明治四五年)熊本県に生まれました。同県出身の堅山南風に師
事し、その後横山大観の内弟子になり四年近く日本画を学びますが、そのさなか召集され敗
戦後シベリア収容所で二年間捕虜生活を送りました。一九四七年(昭和二二年)シベリアよ
り復員後の翌年一九四八年(昭和二三年 三三回日本美術院展に「常陸乙女」が初入選しま
す。一九七〇年(昭和四五年)日本美術院展「池の春」奨励賞受賞。一九七一年(昭和四六
年)「夏の水」日本美術院賞大観賞受賞し一九七四年(昭和四九年)六十代の若さで逝去さ
れました。没後一週間後日本美術院同人に推挙されました。
若木山夫人は若木山氏の死から三十三年後に逝去されました。夫人は若木山氏との生活
の中で茶道の教授をし、また短歌を書いておられました。
若木山氏は生前、自らの絵を添えて夫人由枝さんの短歌集を出してあげたいと語ってい
たそうですが叶いませんでした。それを実現されたのがお嬢様の道守友視さんでした。
若木氏が夫人の歌集を出そうとした訳は、絵を描くことがすべてで、それをさせてくれ
た夫人に対する感謝の気持ちであったことをご存じであったお嬢様の友視さんは亡き父の
代わりに母の歌集 発行をしたいという思いがあったようです。
夫人逝去後の一周忌に、若木氏の絵を添えた短歌集「山の家居」が出版されました。表紙
絵にかたくりの花をあしらった歌集から画家若木山氏と夫人由枝さんの人間像が伝わって
まいりました。友視さんは夫人の姪御さんで若木ご夫婦の養女になられた方です。ご夫妻の
清廉な生き方がお嬢様に受け継がれていることを感じました。
友視さんが遺稿集としてまとめられたこの歌集には父母への思いを次のように記されて
います。
「父六三歳母八六歳、それぞれの生涯を見事に生き、私たちに立派なお手本を残してくれま
した」(歌集 山の家居 父と母の逝き方)と記されています。
また、平成十八年に夫人が入院した数日後、友視さんを病院に呼んでこんなことを話され
たそうです。その話の内容は、
「今は普通に話せるけれど、これから先どうなるかわからないから、若木山の最期の様子
をあなた達に伝えておきたい」と話されたそうです。
若木山氏は、
「描きたいものはまだ沢山あるけれど、絵描きとしての生き方に悔いはない。他のことに
思い煩わされることなく絵を描くことに専念させてくれてありがたかった。また生まれ変
わったら絵描きになる」と強く言われたのだそうです。さらに、
「今生では体が弱かったから、生まれ変わったらお医者さんにと勧めたが、やはり絵が描き
たいから絵描きになる。次の世もまた大変かもしれないが私の奥さんになってほしいと」と
由枝さんに言われたそうです。夫人も、
「あなた(若木山)が感謝してくれるように私も今までの生活は何ものにも変えがたく幸せ
でした」と共に歩いた最期をお嬢様に語り、その生き方を次世代に託されたようです。更に、
「与えられた環境の中で慎ましく、心豊かに若木山が残した小さな茶室と山野草の庭を大
切にした生活には、何も思い残すことはない。死なない人はいないのだから悲しんではいけ
ない」と諭すように母由枝さんは友視さんに語られたそうです。「安らかに父の許に旅立っ
たと信じています」と友視さんは語ります。さらに、
「縁あってそういう二人の身近で生活できたことをありがたく思い、父母の人生に関わっ
てくださった全ての皆様に心より御礼申し上げたいと存じます」と結ばれています。
最期の別れを迎え、自らの生きた姿勢を愛情深く子供に語る若木山夫人。そして、ひたむ
きに、これを受けとめる子供の姿には、悲しくも美しさを感じさせる一文章した。まさしく
「幸せとは」という問いの一つの答えを見る思いがしました。
若木山氏はスケッチ旅行で外房線を利用した時、土気の駅に山百合が美しく咲いている
のを見てここを住処にしようと思われたそうです。若木山氏にとって縁も知人もない土地
へ東京からの五〇歳過ぎての転居でした。友視さんによると、
「土気の地は父が最も作画三昧できた場所であった」と記しています。
夫人の短歌集「山の家居」にもその出来事が歌集の冒頭に記されています。
・この町に住みたき願い一途なる
夫と小さき 駅に降り立つ
若木山氏とほぼ同年代の画家でシベリアに抑留された洋画家香月泰男はシベリアの記憶
をたどり、極限状態に置かれた苦痛や死者への鎮魂の思いをシベリアシリーズとして多く
作品化されています。若木山もシベリアに抑留され、その過酷な体験を背負っているはずな
のに我が家にある若木山の絵は陽光の輝きにあふれています。おそらく細い体でシベリア
の抑留生活を乗り越え日本に帰ってきた若木山は過酷な体験があったからこそ、それ等の
影を飲み込み光の方向へ生きる輝きを表現していかれたのでなないかと思われます。表現
する作品内容は洋画家香月泰男とは実に対照的であると思えます。
五人の画家を紹介した大矢鞆音(おおやともね)の著書「画家たちの夏」に、抑留中の
仲間が語った若木山の人物像が伺われる一文があります。
「確か昭和二十一年の夏の終わり頃だったと思う。彼は私たちのそばに在っていつも暇を
みつけては絵を描いていた。色鉛筆で、小さな紙に日本をなつかしむように、緑の林の中に
一すじの滝が流れている日本画であった。私は彼の気持をそらさないように気配りしなが
ら、毎日後ろから見せてもらった。『あなたも好きなら描きませんか』と言ってちびた色鉛
筆を五色くらい頂いた。小柄で私より十歳くらい上かなと思われる人であったが、やさしい
目にホッとしたものを覚えて心が和んだ。この邂逅以来払は、自分を取り戻したような思い
であった。絵というものは、こんなにも人を変えていく力があるのか。この人のまわりだけ、
恥ずかしくも醜く、狂人の殺気みたいなものは感じられなかった。春の花々に囲まれたやさ
しさみたいな落ちつきが漂っていた」
この一文からも若木山氏の人柄と作品の根底に流れている優しい息吹を感じます。
復員した若木山氏は翌年一九四八年(昭和二三年)三三回院展に出品した「常陸乙女」が
初入選し、一九五一年には「安房ノ海処女」と題した若い海女たちが海に潜る準備をしてい
る健康的な姿を描き、一九五二年はサザエやアワビを収穫した海女が日焼けした体で岩場
を歩く姿を描いた「海女」が出品されました。一九五三年「波上海女図」では灼熱の太陽の
下、褐色の肌の海女たちが力強く、たくましく小舟をいきいきと漕いでいます。
これらの作品からは働く女性のたくましさと大らかさが、豊かな海の恵みに包まれている
思いになります。更に岩の間に漂う水は光を反射しているように美しく感じられ、その波の
描き方はやがて若木山の独特な造形方法を駆使した作品「島の椿」や「夏の水」につながっ
ていくことを暗示しているように思えます。
このように。絶えず新たなものへ作品追及する傍らで、氏を支え続けた夫人の短歌を紹介
いたしましょう。
・椿活け茶の花さして足らいおり
山の家居はつつましくして
・靴音をききし錯覚いく度か
出てたる夫の帰り待つ夜
・真夜中に醒めて構図を決めたりと
画を描く夫の瞳すがしき
これらの作品から若木山氏を支えている夫人の思いとともに、山の生活と相まって澄んだ
落ち着いた時間の経過が伝わってきます。二人の深い精神の結びつきを見る思いになります。
また、若木山氏の師であった堅山南風の夫人に関しての短歌も有ります。
・画家の妻としての心得かくかくと
吾をやさしく導きくれし
・逝きてなお近々と添うわが妻と
残されし師のことば身にしむ
と若木山氏の師堅山南風夫妻への深い尊敬の思いが記されています。
また若木氏が作品「池の春」で日本美術院展奨励賞を受賞した時は、これまで二人で乗り越
えてきた時間が堰を切ったように流れ出し、その喜びの歌を詠っています。
・暑き日も休むことなく描きつぎし
夫の受賞の 絵は会場に
・早き見たき心と恐れ入り乱れ
夫の絵の前行きつ戻つ
作品「夏の水」が日本美術院賞大観賞受賞時は、
・夫の絵が大観賞を受けしとう
しらせに受話機ふるえつつ置く
・皇太子ご夫妻立ちて見給えり
受賞の作品 テレビニュースに
また、戦争を境にして失った若木氏の作品も多くありましょうが、若いころ描いた絵を
大事に持っていてくださる方への感謝の思いも夫人は綴られています。
・吾知らぬ若き日描きし夫の絵を
開けて友は吾に見せくるる
・数少なき若き日のわが夫の絵を
持つきみ家人さえなつかしき
若木氏の人柄を含め堅山南風、横山大観という日本画における大家の下で学べたことは、
若木山氏にとって大きな力となり、描く姿勢は師達の高みの世界に近づく思いであったと
推測できます。淡々と自らの世界を追求し人、花、水を描き続けることが若木氏の世界で
あったと思われます。
夫人の短歌からも窺えるように夫人はその生き方を受け止め若木山という画家を支えな
がら寄り添い続けました。
若木氏が生み出す作品のすべてを優しく温かく包み、描かれた世界に喜びを見つけていっ
た人生だったと思います。
まさしく、忘れかけている日本人としての美しい姿を見る思いがします。
現在若木山の作品一八点は千葉県立美術館に所蔵されています。いつかその全作品を拝
見したい思いに私は今駆られています。
歌集「山の家居」のあとがきで友視さんは、
「梅雨入り前のほんの一時、さわやかな風が通り過ぎてゆきます。はじめての経験で父と
母の思いを一つにしたく遮二無二まとめあげてしまいました。」と記しています。
若木山氏ご夫妻の一つの生きた証を見る思いがする歌集でした。
ご遺族の友視さんが手がけた歌集を拝読し、若木山氏ご夫妻の人生が見事に完結された
思いになるような穏やかな一時を味わえた思いになりました。清廉な若木山ご夫妻の歩み
の中から生まれた作品「芙蓉」が私の詩集の表紙を彩ってくださいました。この出会いに、
今、心から感謝したいと思います。
そして、我が家にある若木山氏の作品は義父の思い出と共にこれからも大切にしていきた
いと思っております。
日本画家 若木山 「芙蓉」