逝ってしまった花友達への手紙

高安ミツ子

                             
        
       
  最近、私の周辺で逝去される方が多く、残された者の寂しさを味わっている矢先でした。

花の好きな私の友が突然、旅立ってしまわれました。数日前、電話で友の悦子さんは「病名

が分かったので高安さんのお家に今まで通りには伺えない」と話されました。私は「それで

は、私が庭に咲いた花を届けます」と話したばかりでした。耳元に残る最後の会話が蘇り、

とても逝去の知らせは信じられない思いでした。現実を受け止めなければならないのです

が、虚しさが内部から突き上げてきて、もう共有する時間がない寂しさを深く感じました。

悦子さんは私よりも年下で、しかも六十代の若さでこの世を去られたのです。私の心は真夏

の落とし穴に落ちてしまったような苦しい思いがしました。けれど、棺の中の悦子さんは、

いつものように穏やかなお顔でした。止まった時間を受け止めねばならないのですが、やり

きれない思いを私は収められないままでした。そして、無情にも悦子さんとはもう、思い出

の中でしか会えないことを知らされました。

 悦子さんはいつも生家へのお仕事に通われていました。その通り道に我が家はあるので

す。義母が存命であったころ悦子さんと義母が話をしていました。悦子さんのお母様と義

母はいとこ関係でしたので、親しさがあったのでしょう。いつか私も花を通し会話をする

ことが多くなりました。春夏秋冬に咲く花を愛でながら私たちの会話は美しく咲く花に生

きる力をもらっていたのかもしれません。二人は花の周りを飛交う蝶のように色彩、香り

立ち姿に喜びを分かち合えたように思えます。花を見ながら、満たされた心による幸福感か

らか、互いの人生や思いを飾ることなく語りました。しかし、悦子さんは決して雄弁すぎる

語り口をしませんでした。その姿はそっと咲く花に似ていました。語りすぎないことがとて

も魅力に思える人柄で、私はこのやんわりとした時間に心地よさを覚えていました。ですか

ら、このような形で悦子さんとのお別れを迎えるとは想像だにしませんでした。季節に咲く

花を両手で抱えるように包んで、花を慈しむように香りを楽しんでいた悦子さんの姿が偲

ばれます。また、市内における冬の美しい夕焼けスポットを詳しく教えてくれたのも悦子さ

んでした。悦子さんは日常の中で美しいものに心動かされ、主張するのではなく受け入れる

ことで心の豊かさを紡いでいく人柄であったと思います。一見新しさだけを求めて描かれ

た絵画に飽きを感じることがありますが、四季折々の自然にはそれがありません。悦子さん

にはまさしく自然の美しさに似た優しい人柄が垣間見られ、私にとって幸せな交流でした。

今宵、あなたの好きな夕顔がたくさん咲きだしました。また、岩川池の周辺では紫陽花 

に絡まった仙人草が白く咲いています。見る人もなく雪が降り積もったような美しい風景

です。あなたとの別れを受け止めなければと思うのですが、花を見ていると冷たい霧雨に

ぬれているような寂しさを感じます。夕顔や仙人草のほのかな香りにあなたとの思い出

をまさぐっていると、もしかしたら、花や夕焼けが好きだった悦子さんは、それらを追

いかけて行ってしまったのだろうかと夢想したくなるのです。

 人間の大きな歴史の中では私の生も悦子さんの生も雫のようなものかもしれません。 

そんな小さな生であっても、季節ごとに見た花から生きる喜びの物語を二人で分かち合え

たことはうれしいことでした。

 これからは、二人で見た花の力を借りて、季節の花に悦子さんの気配を想像しながら残さ

れた時間を私はもう少し生きてみようと思います。悦子さん安らかにと心から祈ります。

そしてあなたとの出会いに感謝を込めて。さようなら。