僕は90歳のなりました
目覚めると
お父さんと家の周りを散歩します
遠くには行きません
だって無理なのです。
後ろ脚の筋肉がなくなり
氷の上を歩いているように滑ってしまうからです
鶯が朝のグラデーションを描くように鳴いています
四十雀が体を揺らして囀っています
朝の空気は格別なのに
僕は僕の命を何故か悲しく感じます
毛並みも落ちて
自慢だった尻尾も今は古びた箒のようで
自慢するものは何もありません
この頃は目が悪く
時々外の塀にぶつかります
散歩の後は眠るだけなのです
お父さんとお母さんは
「こむぎはりっぱだね」とほめてくれます
僕が家で粗相をしても叱りません
90歳だから許してくれるのです
僕が食べられるように餌も考えてくれます
お母さんは僕を抱っこして
庭の風景を見せてくれます
僕は弱ってしまったけれど
深い青と純白に咲いている
今日の紫陽花をみながら
お母さんの顎をチョッピとなめました
ささやかな親愛の気持ちなのです
もう僕は懐かしむ記憶も気力もありません
ただ今を生きています
来年の桜は見られないかもしれません
はかないけれど僕の灯を
お父さんとお母さんが覚えてくれていたら
僕はただ嬉しいのです
人と犬の僕がこんなに近しく思えるのは-
太古からの歴史でしょうか
僕とお父さんお母さんをつないでいる愛おしい気持ちが
谷川のような心地よい瀬音になり
僕の耳元に聞こえています
そんな時
僕は雲の数を 風の種類を 花の香りを
ひい ふう みい よお と数えながら
くうん くうん と心の中で鳴いてます
僕は90歳になりました
高安ミツ子